さまざまな分野で活躍する方にお話をうかがうインタビュー「グローバル・コネクター®」。今回のゲストは、エンジニアリング企業で海外事業の生産システム構築やプロジェクトマネジメントなどを手掛け、中小企業診断士などの資格もお持ちのシステムアナリスト佐藤知一さんです。
木暮 就職時にグローバル事業をやりたいと思ったきっかけは?
佐藤 父の影響です。ポンプメーカーで海外向け事業も担当し、プラント業界のことも詳しく、エンジニアリング会社への就職も勧めてくれました。エンジニアリング会社に行くということは、ほぼ自動的に海外で仕事をするということを意味しますから。
木暮 一貫してIT部門に?
佐藤 全然違うのです。専門は化学工学だったのですが、石油精製所のプラントの事業調査や最適化という、事業企画や経済的に引き合うかを分析する業務から出発しました。さらに専門外の分野ですが、会社が病院の設計・建設に乗り出しており、患者数の予測モデルを作る担当になりました。実際にモデルを適用するまで2年半ぐらいかかりました。「どこが化学エンジニアなの?」という感じです。
木暮 与えられた状況で楽しめるというのが大事ですね。
佐藤 その後、会社は地域開発も手掛けるようになり、土地利用のためのシステム開発などを5年ほどやりました。
木暮 地域開発事業は上手くいったのですか。
佐藤 営業力が足らず、会社の中核事業には育ちませんでした。日揮グループは約7000億円を売り上げる2500人規模の組織ですが、そのうち営業マンは100人ほどです。会社にとって地域開発は「小さいビジネス」と見なされたわけです。技術屋として入社したつもりでしたが、全く実感がわかず、異動を申し出ました。
木暮 ついに直談判。
佐藤 配置されたのはメーカーの生産計画・スケジューリングシステムの開発プロジェクトでした。今まで「もっと技術的な仕事がしたい」と思っていたこともあり、飛び付きました。ところが、そのプロジェクトでは受注金額の倍の費用をかけてしまったうえ、完成も予定より半年遅れてしまいました。しんどかったですね。作り直しも命じられましたし。
木暮 ほろ苦い「デビュー」ですね。原因は何でしょう。
佐藤 システム上の技術的な弱点に気が付けなかったことです。ただ、苦心惨憺(さんたん)で納品した結果、その製品は10年以上も使い続けてもらえました。プロジェクトマネジメントとしては失敗でしたが、ビジネスとしてのバリュー(価値)は出せたのかもしれません。
木暮 最初の挫折で向上心に火が付いたのでしょうか。
佐藤 教訓ですね。ちょうどこの頃に中小企業診断士の資格を取っています。経営学のイロハや生産管理の初歩もその頃に学びました。
木暮 ここからエンジニアの仕事が増えていくわけですか。
佐藤 そう思うでしょ。ところがまだ本流のプラント計画には携われません。ITの仕事をキャリアにすることに釈然とせず、社内の海外LNG(液化天然ガス)部門に「修行」に行き、日米英の3カ国がかかわるプロジェクトの見積もり作成に参加しました。LNGの世界は見積もりだけで半年以上、何億もの費用がかかります。実際の事業も全体で数千億円レベルです。
木暮 大規模ですね。
佐藤 英語の面では、在職中に経験した1年間の米国留学よりも勉強になりました。仕事という緊張感や自分の言葉に対する責任感が違うわけです。仕事で使わない限り言葉はマスターできないと思います。
木暮 外国人とはいえメンバーはプロの集団です。日本人とは何が違うのでしょうか。
佐藤 マネジメントです。米国人は組織的でロジカル。最初にプランを立てて進めるのが基本姿勢です。全体の進捗を可視化し、計画に遅れているチームには尻を叩く。締め切りに間に合わせるために最後は人員を追加投入する「物量作戦」をとる事もありますが、こうした進め方が「習慣」になっている。日本人がいくら「最後は現場が何とかするから」と言っても信じない。イギリス人のアプローチもそれに近いです。
木暮 外国人の仕事ぶりを目の当たりにして刺激を受けたわけですね。
佐藤 それから別のLNGプラント設計プロジェクトに動員されたのです。これまで本流からは外れ続けていたのに、ITの知識があるということでプラント事業に携わることになったわけです。
木暮 当時も珍しかったのですね。
佐藤 その後、電子調達システムの仕事でフランスに1年半ほど滞在したのですが、技術的な問題や商習慣の違いなどから会社が撤退を決め、私はいわば社内で「失業状態」になりました。その後もITを活かせる新規ビジネスの部署で5年近くもがいたのですが、最終的には事業化のめどが立たず、また失業。挫折の連続です。
木暮 常に新しいところに身を置ける、とも言えますね。
佐藤 プライドを取り戻すため、3年間をかけて博士号を取得したものの、処遇は変わりませんでした。博士号は社内報奨制度のリストになかったからです。不満でしたが、また人生が動くから不思議です。一介のエンジニアだった私がひょんなことから会長の海外出張に同行することになり、講演資料の作成を命じられました。その後も会長向けの報告書などを手掛けているうちに、幹部の目に留まり、経営戦略室長代行の後任となって、企画部門で現在に至っています。
木暮 波乱万丈ですね。
佐藤 会社の本流を外れたプロジェクト進捗管理からキャリアをスタートしたのに、今では会社の事業戦略の作成に関わることになったわけですから。
木暮 著書『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』にある「異文化とコンテキストレベルを理解する」「言葉を大切にする」の指摘が印象的です。
佐藤 文章を書くのは好きですし、言葉に対しても昔から強い興味を持っていました。小学生のころ、父から「これからは英語とコンピュータが必要になるから勉強しろ」と高価だったはずの英語教材を与えられました。日本の英語教育や日本人のコミュニケーションのあり方に強い疑問を持つようになり、高校3年の時に中津燎子さんの著書『なんで英語やるの?』に出会い感銘を受けました。日本語の世界には自他を区別し、相手の了解と自分の了解の違いを意識した上で知識や意思を伝える、という発想が決定的に欠けています。海外プロジェクトはそれでは乗り越えられません。
木暮 外国人の方とお仕事をする際に、最も心がけていることは?
佐藤 相手が西洋人だろうがアジア人だろうがお互いに対等な人間である、と意識することです。いろいろな国で仕事をして経験的に知ったのは、人間の振る舞い方は育った文化の「型」で規制されている部分はあるものの、感情のあり方はかなり共通している、ということです。外に現れた行動だけで判断できない。どんな人間も自負を持っているし、自分の所属する社会・文化・宗教にプライドを持ちたいと考えている。そこを土足で汚してはいけないのです。言葉の通じない外国人同士でも、お互いが考えていることはかなり感じるものです。そこを侮ると、いつかしっぺ返しをくらうのではないでしょうか。(おわり)