【第10回】「実績を示せば耳を傾けてもらえる」朝野徹さん

さまざまな分野で活躍する方にお話をうかがうインタビュー「グローバル・コネクター®」。今回のゲストは、大手メーカーのパリ駐在員などとして活躍後、現在は130年の以上の歴史を持つフランスのスポーツサイクルのホイール大手ブランドMavic(マヴィック)の日本法人代表を務める朝野徹さんです。

 

木暮 渡仏のいきさつはどういったものでしたか。

朝野 海外と仕事ができるのを夢見てカネボウに入ったのですが、当時は志望していなかったファッション部門へ配属され、本社がある東京ではなく地方都市に赴任が決まったりして、当初は正直内心くさっていました。その後、取引していた欧州のファッションブランド「クリスチャンディオール」と直接交渉ができる人材の育成を目指していた本部から1年ほどで呼び戻され、フランス駐在員候補に。最終的になぜか私がパリに渡ることになったのです。

 

木暮 ファッションでパリ赴任とは、うらやましがられたでしょう。

 

朝野 それが駐在員とは名ばかりで、語学学校の手配を含め、生活環境もすべて自分ひとりで整えなければいけませんでした。内容も日本からの出張者への同伴もあれば、海外のコレクションに出向いてのブランドの買い付けもありましたし、何でもやりました。

 

木暮 フランス語はいかがだったのですか。

朝野 当初はあいさつぐらいしか知らず、パリから遠く離れたオーベルニュ地方にある小さな町で半年ほどホームステイしました。フランス語しか話せない場所に身を置いたことが良かったかもしれません。私の語学力を過信したのか、会社からは通訳者として会議に参加するよう指示されることもありました。できないとも言えず、何とかしましたけれど。

 

木暮 何とかできるだけすごい。

朝野 商談が絡むビジネス通訳とは違いますからね。聞き直しもできたとはいえ、いま思い出すと、その拙さにゾッとします。

 

木暮 言葉の壁を越えると、話者の考え方も理解できるようになりますか。

朝野 フランス人の立ち居振る舞いの背景などにも気付きましたし、食事の仕方ひとつ取っても日本とは違うことが分かります。地方のレストランで「注文した料理が一度に来ない」と憤慨する日本人幹部をなだめるのに苦労したことがあります。コース料理ですから食事も会話も楽しむのが当たり前なのですが、上司に反論するわけにもいかない。レストラン側に「申し訳ないが、次に約束があって急いでいる」と交渉してその場をしのぎましたが、シェフのムッとした顔を今でも覚えています。

 

木暮 それは大変でしたね。

朝野 ストライキに対する考え方も違います。フランス人にとっては正当な権利行使です。公共交通機関がマヒしても文句を言う人はいません。個人の権利を大切にする社会の成熟を感じます。

 

木暮 日本だと「周りに迷惑がかかるからやめよう」となりそうです。

朝野 特に人格を尊重する意識が高いように感じます。個人に自立を求めて依存しない。子ども扱いもありません。

 

木暮 現地には早く溶け込めたのですか。

 

朝野 大学時代にインドへ2度旅行したこともあり、外国人には慣れていました。自分の価値観を押し付けると拒否されることも経験上、知っていました。

 

木暮 フランス人はどうでしたか。

 

朝野 人生は複雑で矛盾に満ちているという考え方がありますね。「セ・ラ・ビー(それが人生さ)」ですからね。

 

木暮 当時の経験は、これまでどのように影響していますか。

朝野 私自身というよりも、人との出会いに活きていると思います。海外に行くと濃密な関係ができます。仕事ぶりや人柄も否応なしに見えます。フランスに駐在したのは20代後半でしたが、本社にいたら口もきけないような重役と同行できた経験は大きいです。日本に帰った後、社内で別ブランドを担当する方から、帰国後に事業に呼んでもらえましたし。

 

木暮 顔見知りだ、という理由だけで声は掛かりません。

 

朝野 聞くところによると、当時の私は自信家でふてぶてしかったそうです。

 

木暮 キャラが「立っていた」のですね。海外志向もありましたか。

朝野 学生時代はアジア放浪とかバックパッカーがはやった時期で、自分の知らない世界に行って仕事ができたらいいなと触発されたように感じます。

 

木暮 バックパッカーから華やかなビジネスの世界に。

朝野 欧米で仕事をするというのは、自分の意思とは違いました。パリコレやイタリアのファッション展示会にも行きましたが、高揚感は全くありません。仕事の義務感だけでピンとこない。自分には場違いだとも思っていました。

 

木暮 セ・ラ・ビーですね。人生とはそういうものかも。

朝野 良い経験をさせてもらいましたが、海外に赴任した3年で同期からは後れを取ったという焦りもあり、帰国してからは会社にどう貢献しようかを考えていました。

 

 

木暮 自転車の部品メーカーを率いるようになった経緯は?

朝野 帰国後はカネボウでイタリアのスポーツブランド「FILA」の関連事業部門を経た後、誘われて転職し皮革製品ブランドのロンシャンの日本法人設立に携わりました。事業は順調でしたが、数年後スキー・アウトドア用品の「Salomon」やラケット用品「Wilson」などのブランドを手掛けるアメアスポーツの日本法人社長から誘いを受け、次のステップに進む為に転職しました。グループ内でたまたま空いていたポストがMavicの事業部長職だったので、そこを任されることになりました。と言っても、私はスポーツサイクルには乗ったこともないし、Mavicの知識はツールドフランスくらいで、ほとんどありませんでした。

木暮 ここでも運命の妙が。

朝野 入社後にMavicは半年で売上が8%も落ちていました。その年度は自分の評価ではないとは言われましたが、意地でも何とかしたかった。

 

木暮 どうしましたか。

朝野 卸売りメーカーだったので「売る人」のカルチャーがなかった。私は直営店経営の経験があり、販売は自分たちでやるのが当たり前でした。そこで、まずは「お客さまに買ってもらわなければダメ」と気付いてもらうため、それまでは販売店任せだったブランドの見せ方などを社内で議論したり、スタッフ教育を含めた意識改革に取り組みました。

木暮 手法を変えたわけですね。

朝野 しばらくしてグループ本社の最高経営責任者に事業経過を報告する機会があり、実績を資料で説明したところ、彼は突然「そのプレゼンを是非譲ってほしい」と言い出し、自分のUSBを投げてよこしました。その時から、私の手腕に懐疑的だったリージョンの責任者含め、周りの評価も変わったのを感じました。

 

木暮 プレゼンがCEOに「刺さった」のはなぜだと思いますか。

朝野 カルチャー・チェンジの意義を強調したからでしょうか。店舗を変え、ブランドを変えた事例を「エビデンス(証拠)」として示せたのが良かったかもしれません。

木暮 実績を見せるのは、国籍を問わず説得力がありますものね。

朝野 ほかの欧州ブランドで直営店を手掛けてきた経験から、ビジネスをコントロールする自信もありました。経験則で語れば話を聞いてもらえるし、理解してもらえます。相手がいくら強面(こわもて)だろうが論破できます。

 

木暮 社長に就いてからはどうですか。

朝野 決算や契約、さらに自社オフィスの開設など準備することがたくさんあります。販売店との関係やサプライチェーンの整備も課題ですし、当社の高い技術力を見ていただく努力もしていきたいです。ホイールはミリ単位、グラム単位の世界です。スポーツバイクに差が出るのもそうした工学的な部分です。ブランドしてはユーザーとより関われる機会を増やしたいと考えています。実際に体験してもらうと分かりますが、良いバイクは普通のスポーツサイクルの何倍も速くて、とにかく楽しいですよ。(おわり)

 

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