【第60回】「状況を掘り下げて原因を探す」寺島周一さん

さまざまな分野で活躍する方にお話をうかがうインタビュー「グローバル・コネクター®」。今回のゲストは、心理学博士からビジネスの世界に転身し、現在は欧州を拠点に会社設立支援などを手掛けるコンサルティング会社「TMC WorldNetWork」の代表を務める寺島周一さんです。

 

 

 

 

木暮 博士号をお持ちですね。

寺島 父が心理学者で、子どもの自閉症を認定する公務員だったんです。アカデミックな人でした。一方、母は2級建築士の資格があり、祖父の建築会社で働いていました。どちらかと言えばアート系の設計家ファミリーでしょうか。フィギュアスケートの素質を見込まれて米国にスケート留学するほどの腕前だった姉と違って、私はスピードスケートなどをやった後、剣道にのめりこみました。近所に剣道場があり、自宅に一番早く帰宅する「かぎっ子」で、道場でみんなと仲良くなって居心地がよかったんです。中学に進むころには県内では上位に食い込めるようになったのですが、日本流の「しきたり」とか「根性」という精神世界になじめなくて。強豪校として知られた母校への進学を勧める剣道部顧問の反対を押し切って別の学校に入学しました。

木暮 剣道以上の魅力があった?

寺島 その学校が国際交流や交換留学制度をうたっていたところにもひかれました。2年生の時に米西部シアトルのハイスクールに短期留学できたのが海外とのつながりです。

木暮 僕も高校2年の夏から米南西部のテキサスに留学しました。滞在期間を無理やり2年に延長してもらったんです。10代の若者として当時の米国に感じ入るものがありましたか。

寺島 巨大なサイズのハンバーグやステーキといった、スケールの大きさに驚いたことも覚えていますが、周りの人が寛容だったことも印象的でした。

 

木暮 寛容というと?

寺島 字が乱雑だったり、細かい手作業がおぼつかないことを両親に厳しく指摘されて育ったため、自分は不器用な人間だという自覚がありました。ところが米国ではそれを「とてもキュートだ」と言われて。

 

木暮 かわいいね、と。

寺島 感じ方は人によって違う、と気付きました。そのうち「自分を受け入れてくれる場所の方がやりたいことができて、能力も発揮しやすいんじゃないか」と感じ始めたんです。

 

木暮 その感覚は分かります。日本で赤点ギリギリだった数学の知識が現地ではなぜか絶賛されて。州の数学コンテストまで出させてもらいました。褒めて伸ばす、ですよね。

寺島 自分を伸ばすという視点で試したほうが良いと常々思っていました。

 

木暮 英国に進学したのは?

寺島 父の影を追ったこともありますが、発達障害とか感情的な部分での心理学に興味があり最先端の研究をしていた英国に行くことに決めました。当地の障害者支援で主流だったのは地方自治体が地域の中で面倒を見るという「コミュニティーケア」と呼ばれる手法。国内では法整備もされており現場で勉強がしたいと思いました。

 

木暮 隔離をしないでケアするという姿勢は、周りの人たちの理解がないと難しいのでは。

寺島 1970年代までは英国も巨大な精神病院でケアする「隔離政策」をとっていました。ところが予算がかかりすぎることから制度が見直された経緯があります。いまも部屋が借りづらかったり、就職も難しかったりといろんな問題も出ています。身体障害者の方も知的障害の方も地域で一緒に暮らすというのは学ぶべきところが多いと思いました。

 

木暮 高校卒業後の進路として英国の大学を選ばれてどうでしたか。米国との違いは感じましたか。

寺島 語学に長けていたわけではないので苦労はしましたが、剣道の経験があったのが地元では重宝されたんです。友人ができて論文の書きぶりを見てもらうのと引き換えに剣道を教えたりとお互いに助け合って。

木暮 武道ができるのはうらやましいです。僕の留学当時は空手映画の「ベスト・キッド」が流行っていたんですが、その方面の知識が全くなくて。

寺島 英国では剣道を教える機会があったのですが、これも難しさを感じました。

 

木暮 どんなところですか。

寺島 私自身が精神論の中で教わったこともあり、外国人学生に対して技術論をロジカルに説明できないんです。イギリス人やフランス人はロジックを求めてくる。「どうしてシューイチはそのスピードで打てるのか、科学的に説明しろ」と言う。そう言われても難しいので「これは伝統的にそうなっているんだ。見て盗め」と。

 

木暮 シェフや板前の修業のような会話ですね。

日系企業をカウンセリング

木暮 剣道がよりどころのような感じで友人もでき、英国に溶け込むことができた。

寺島 研究者や医師のようなスペシャリストとしてやっていこうと決心しました。その後は病院で夜間に臨床の観察を続ける一方、大学の非常勤講師や介護施設などでアルバイトをしていました。2000年代の後半ごろ、精神疾患に関する私の論文が学会で論争を巻き起こしたり、政権交代のあおりで学術研究費も出なくなったりと作業環境が厳しくなりました。家族を食べさせるために登録していた人材紹介会社から連絡があり、代表の方とお会いすることになりました。その代表は人材派遣サービスを欧州で本格展開していく構想があり、その体制づくりの手伝いが必要だと言う。研究者としての知識のみでビジネスの経験がないのでためらっていると「2年間は何も売らなくていい。欧州中の社長の悩みを全て聞いてきてほしい」と説得されました。

 

木暮 面白い展開ですね。

寺島 先見性があったんですね。欧州に進出した企業の悩みを聞く、カウンセリングのようなことをしました。そこで分かったのは、進出間もない日系企業の多くが「20人の壁」を越えられずに苦しんでいたことでした。

 

木暮 どんな壁ですか。

寺島 赴任した日本人トップが1人で管理できる現地の社員数は20人が限界。事業規模を拡大しようにも手一杯になってしまうんですね。悩んでいるのは資金調達ではなくて人員の管理だった、という内容の報告書もできました。

木暮 なるほど。採用に関する悩みを掘り下げて分析したんですね。

寺島 心理学者というキャリアが役立ちました。ただ、2年間も営業成績が上げられないことについては自分なりのプレッシャーも感じていました。そこで相手から仕事の引き合いが来るようなビジネスモデルを作ろうと英国の企業700社のリストと机1つで自分だけのコンサルティング部門を作ってみました。社長さんたちの悩みを聞くうちに「労働組合と問題があるんだけど助けてくれない?」といった具体的な相談を受けるようになってきたんです。そうして、日本企業の求めるサービスを提供するために英国や欧州連合(EU)政府との交流を深めて関係を作り、事業領域を広げていきました。

 

 

木暮 そのまま事業部門を拡大されたわけですね。

 

寺島 統合した別部署の古参メンバーなどからは反発もありましたが、社内メールの短縮を指示するなど作業の効率化を図り、社員の残業が減るにつれて不満は収まりました。

 

木暮 最近は人事アドバイザーとしてご活躍されているそうですね。

寺島 日系企業の顧問として自分を「レンタル」しています。相談を受けるのは労組との交渉や性的マイノリティーの社員をめぐる対応など、さまざまです。解決案を提示するのですが「代わりにやってほしい」と対応をよく任されます。日本人幹部が中東の現地スタッフに軽んじられて困っている、という相談を受けたときは、ひと芝居打ってもらうことにしました。事前に話をつけておいた英国人に間に入ってもらい、日本人幹部の指導を真摯に聞く姿を演じてもらいました。日本人幹部に指導力があることや社内の上下関係を示すためです。すると現地スタッフが日本人幹部を見る目も変わってくるんです。

 

木暮 斬新な作戦ですね。

寺島 面白いですよね。そうした問題を解決していくと信頼してもらえます。そこからビジネスを広げていくわけです。

木暮 ご自身で「グローバルの定義」を打ち出されています。共感できる部分が多いです。

寺島 教訓として8つの心構えを提案しました。時間を大切にする要素や情報をどのようにビジネスに生かすか、といった戦略を紹介しています。学者だったときの経験が役立った部分もありますね。

 

木暮 日本の高品質な商品を欧州に紹介する企画「SAKURAプロジェクト」も展開されていますね。今後は?

寺島 コロナ禍で日本と欧州の交流が途絶えがちになりました。宮内庁御用達の陶磁器を英国の高級百貨店で販売する計画に携わりましたが、成功するかはやってみないと分からないところがあり、そこが楽しくもあります。今は英国発の自然派ドッグフードの日本展開に関する市場調査などを進めています。日本のモノづくりの技術やアイデアについては、欧州でライセンス販売していく戦略に活路を見出しています。ライセンス化をサポートすることで日本と欧州がより近づけると感じています。(おわり)

 

 

 

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